■ オウム真理教死刑執行。宗教者よ,立て。

  オウム真理教教祖 麻原彰晃らの死刑が執行された。あの「地下鉄サリン事件」も23年になる。麻原の本音を聞きたかったなどの論評もあるが、彼が話すはずもなかった。殺された遺族や被害者のことを考えれば、死刑執行はむしろ遅すぎたというのが私の率直な印象である。元外務省、作家の「佐藤優」氏が何時もながら卓見を述べる。彼自身、キリスト者を自認している(産経新聞 7月15日)。
  オウムが狂気の宗教であることは間違いないが、しかしおよそ宗教はその狂気性を常に持っている。キリスト教の改革者マルチン・ルターでさえ、大なる救済のためには小農民の殺人を正当化した。ヒトラーはルターを熱心に尊敬していたという。洋の東西、宗教戦争を持たない国は多分無い。信仰のために死ぬことを決意をした人は、他人の命を奪うことへの抵抗感を失う。「ナショナリズム」は近代以降の最大の宗教とも言えるが、祖国のために命を捧げることを決断した人は躊躇なく人の命を奪う。今の中東を思えば説明は要らない。
  ここで神学者や宗教学者は、宗教には狂気や危険が宿ることについて、人に伝えることに積極的でなければならない。日本では宗教について学校で学ぶ機会が少ない、いや意図的に避けている節がある。この混沌とした社会では教養や専門知識は学べても、心の空白を満たす環境が容易に得られない、その隙間にこそ、危険な宗教がつけこんでくる。「イスラム国」(IS)のように他者の命を奪うことを積極的に肯定する国際テロ組織も生まれ、それに意識と行動を惹かれる若者が続いた。
  ロシアには「宗教的(精神的)安全保障」という言葉があるそうだ。ソ連崩壊の混乱期にオウムを含む様々に危険な宗教が若者を捉えた。その教訓から中高生、大学生には広く宗教に関する教育を与えている。

  オウム事件は日本の犯罪史上特異な事件であった。宗教事件ではあったが、これは教育、社会、刑事、政治に余りに広い関わりを持って、今後講学的研究も進んでいくのだろう。少なくとも宗教者、宗教学者の役割は大きい、と私も考える。