■ 東大柔道部誌に掲載したこと

柔道と私、そして全柔連宗岡執行部に望むこと

 

                   昭和43年卒 衆議院議員 原 田 義 昭

  

 私は昭和39年(1964年)4月に大学に入り直ぐ柔道部に入った。同期は20数人いた。その年10月が東京オリンピック、世の中は活気付いていた。この年を境に日本は先進国になったとされる。私は有段者(黒帯2段)で、体も大きく、東大の柔道なんて軽い、と多少高を括っていた。が、いざ稽古が始まると高校と大学生はまるでレベルが違うことを思い知らされた。稽古にも合宿にも真面目に取り組んだ。1年生から七帝戦に出たが、試合場の雰囲気と緊張感には失禁しそうになった。名大の寝技師鈴木選手には鬼気迫るものを覚えた。

 オリンピックが始まり、私はオリンピック委員会の学生スタッフ(アルバイト)として裏方作業に従事した。小川(郷太郎)も一緒だった。国立競技場の開会式(10月10日)では場内整理も手伝ったし、かのマラソンのアベベ選手が裸足で走る姿も路上で追った。

 そして日本武道館であの歴史的瞬間、ヘーシングが神永を袈裟固めで抑えたのはまさに目の前の出来事だった。館内大騒然の中で何故か涙が止まらなかった。 

七帝戦向けの柔道、寝技専門の柔道には1年生の終わり頃から本気で始めた。旧制高校の伝統を愚直に引き継ぐ七帝戦には寝技を主体とする独特の厳しさとルールがある。私には実はきっかけがある。ある大会の団体戦、立ち技には自信があったのだが、小さい選手にぶん投げられた。チームもこれで負けた。立っていれば私立大学にとても勝てない、これが私の寝技に取り組んだきっかけ。

 基礎を学び直し、懸命に匍匐(ほふく)前進を続け、帯取り返しを繰り返した。その後実力がつき、特に横四方と崩れ上四方、自信もついてきた。寝技にさえ持ち込めば必ず勝てる、少なくとも決して負けない。ある時稽古で(後に全日本をとった)佐藤宣践さんを押さえたことがある。いかに自信となったか。 

 寝技だけでは大学を出て困らないか、という疑問がいつもあった。しかし我らの寝技は半端でない、なまくら立ち技くらいならどこからでも来い。これが我々の柔道生活であった。稽古は寝技に始まり寝技で終わった。合宿もよくやったし、遠征にも行った。警察特練(機動隊)との稽古はさすがに歯が立たなかった。怪我もよくした。折しも主将の山中(邦捷)は軽量級でオリンピック最終候補に残っていた。2年下の宗岡(正二)も主将になる頃には寝技で絶対の抜き役となった。 

 時代はまだ貧しい時代であった。育ち盛りで皆腹を空かせていた。先輩から声がかかると皆喜んで着いて行った。駒場前や渋谷の横丁でラーメン、焼き鳥、おでん、時には寿司に酒まで付けて頂いた。年末には、金が無くて故郷に帰らぬ部員たちは合同稽古と称して飯を腹一杯食わせてくれた。藤岡先輩らの「暮れの合宿」のことを思うと今でも涙が出る。瀬戸口(正征)のお母さんの危篤電報が来た。列車では鹿児島までとても間に合わない、小遣いを皆で集めて渋る瀬戸口を飛行機に乗せた。そういう時代だった。 

 昭和43年に卒業した。皆社会に出て、我が道で忙しくなる。柔道は果たして役に立ったか。我々は役立つから七徳堂に通ったのではない。我々はただ柔道が好きだったからだ。そして私の場合本当のところ、学校の授業に着いていけなくなった、せめて何かひとつ、柔道くらい修得しなければ、親に対して申し訳ない。追われるように、ものに憑かれたように稽古はよくやった。そして社会に出て柔道をやって良かったことに改めて気づいたものだ。武道系は性格が単純である、文句なく元気が良い、体力があり無理が効く。直ぐ行動を起こす、誰とでもやっていける… 

柔道はひたすら国際化した。再びオリンピックが東京に来るという。あの時ヘーシングがオリンピック・チャンピオンとなり国民は衝撃を受けた。が、外国選手もよく育った、いやよく育てた、と自賛したのがあの時の日本人の本心であった。そして半世紀、今や世界の柔道は十分に育ち、いや育ち過ぎた。一方日本は取り残されたともいえる。金メダルが当たり前という時代は遠に去った、「せめてひとつでも多くメダルを」と普通の国になった。しかし柔道の国際化、民主化は日本人にとって本懐であって大いに喜ぶべきものなのだ。 

 ただ柔道規範やルールの変遷に戸惑いは隠せない。何も「嘉納治五郎翁の時代に戻れ」、などというつもりはない、しかし「不易」、変わってはいけないものはある。「礼に始まり、礼に終わる」というのは神代から武道の節理であった・『精力善用、自他共栄』、持てる力を正しい方向に向けよ、その力は自分と相手、世の中全ての人に役立つようにと、講道館前に佇まれる嘉納治五郎翁は、この平易なことを今も全ての弟子たちに諭しておられる。 

柔道会はある意味、いつも荒れてきた。戦後直ぐもそうだった。 

 私らのその時代でも全柔連や講道館のあり方や段位のあり方を巡り、あるときは権力闘争の様相を呈していた。恩師清水正一先生がその改革に敢然と立ち上がられたこともある。また東大柔道部も苦難の時代に入ったこともある。寝技引き込みルールの是非を巡って七帝戦、京大戦などからあえて身を遠ざけた。この孤高の10数年は、現役においてもOBたちにとっても辛い試練の期間であった。人間は必ず、闘争する。世の中はそのように出来ている。大事なことはそれらの闘争を通じて組織も人格も真に昇華されたかにある。歴史の評価はただ一点、我々柔道人はより高い所に昇華出来ただろうか。 

 そして、この1年、我が柔道会はとりわけ苦悩の中にあった。取っ掛かりは体罰問題という深刻だが単純なものであった。しかし奥にある闇は深かった。目に見えるものばかりでない、内に巣食う矛盾も白日の元で議論された。全柔連はそれらを自浄する機能をもはや失っていた。いかな組織、伝統でも多少の矛盾は抱えつつも、それが十分に管理されているか、さらにその管理が組織の倫理性と民主的支持に裏打ちされているか。即ち正しい方向に向いているか、それを皆が支持しているかがとりわけ重要である。それを失くした瞬間、国家でも革命で潰れることもある。 

 全柔連の会長に宗岡正二君が選ばれた。世の宗岡氏の改革への期待と思い込みは大きい。この混迷の中で唯一の解が宗岡氏だった。 

「あえて火中の栗を拾う…」と彼は吐露する。そして専務理事に近石康宏君、事務局長は宇野博昌君とあれば、説明の要もあるまい、日本柔道の立て直しは、ひたすら東大柔道部にかけられたということ。その任は極めて重い。その際、も1つ重要なこと、日本柔道界には伝統的に学問、大学系列の問題がある。系列間には良い意味の切磋琢磨もあるが、それが昂じると弊害の方が大きくなる。仮にそれが柔道界の宿阿というのなら、東京大学のような中立者にしかその改革は出来ない。宗岡会長はすでに決意している、日本の柔道がひとつにまとまり、尊敬を取り戻し、青少年たちには夢と誇りを与え、もちろん国際戦績も絶対1位を回復すること。そしてなにより「武道」としての柔道魂を蘇生させること。柔道の淵源は日本の、嘉納治五郎翁や新渡戸稲造翁の『武士道』にあることを、改めて確認して欲しい。 

 今、日本は、信じられないことだが、国際組織(IJF)には一人の理事も出していない。オリンピックはもちろん、国際試合やひいては国内試合も、規範やルールが全て国際組織で決まるとしたら、国際組織に足掛りを持たない今の現実は致命的に深刻である。宗岡執行部にとりわけ望みたいのは国際理事を取り戻すこと、オリンピック誘致に見せた日本人の底力は、自ら思うより遥かに大きく誇りを持っていい。 

 『七帝柔道記』という大部の本が最近出た。著者はルポライター増田俊也氏、北大柔道部の出身者という。50歳を過ぎたか、私らより2世代若い。その彼らが七帝戦に出るために寝技を、ただひたすら励んでいた。厳しい合宿をただ七帝戦に勝つために耐え抜いていた。我々と全く同じ柔道生活を復元したその執念にはただ驚く。とても世の中には流行るまい、だがこれぞ柔道魂、七帝魂を完膚なきまで書き切った増田某とは何者ぞ。厚い雪に埋れ寒風吹き荒ぶ北海道だからこそこの男を育てることが出来たのか。 

 多少感傷的に柔道論を書いてみました。小学校2年から稽古を始め、強くこそならなかったが柔道への思い入れは人には負けない。全柔連問題には心を痛めたが、宗岡執行部となると、我々も責任の一端から逃げるわけにはいかない。繰り返すが日本柔道の誇りを取り戻すこと、国際組織にも本気で取組んで欲しいものだ。 

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コメント: 2
  • #1

    烏龍茶 (水曜日, 05 3月 2014 16:17)

    中学校でも柔道が義務化されていますね。
    武道を形だけ義務としても精神的な訓練になるのか、と疑問です。
    心技体の文字通り心が先に存在しないと形骸化してしまう。
    この点をいかがお考えであろうか。

  • #2

    塚田 (水曜日, 05 3月 2014 18:52)

    柔道の極意は柔よく剛を制す。
    単なるスポーツではなくましてや格闘技なんかではない。
    烏龍茶さんがいうように心技体整ってはじめて柔道たりえる。
    そういう意味においては柔道は国際化出来ていない。
    昨今の不祥事をみていると柔道は逆にJUDOの影響を受けて、強ければいい、というように心が置き去りになっている。
    真の武道てしての柔道の復活は烏龍茶さんが言うように心技体の充実なくしてはあり得ないと思うが如何であろうか。