■ 名工・浜野矩隋(のりゆき)伝

 江戸は寛政年間、稀代の名工浜野矩康(のりやす)の一人息子矩隋は不器用な男であった。父亡き後、懸命に努力するも愚作しか作れなかった。道具屋の若狭屋甚兵衛だけは父親との義理で独り辛抱強く付き合ってくれた。しかし若狭屋も遂に愛想を尽かし、もう彫師を已めて商売替えをせよと説いた。さもなくば首を括れとさえ言葉が走った。

 矩隋は母親にその旨告げた。母親は、それじゃと言って首吊りの用意をしてくれた。その瞬間母親は、お前が(死ぬ)本気なのはわかった、死ぬ前にせめて私のために形見の品、観音像を彫っておくれ、と頼んだ。矩隋は裏に出て井戸の水を浴び、仕事場に入り彫り始めた。隣では母親が一心不乱に念仏を唱えた。三日三晩の明けた朝、出来上がった観音像を母親に渡した。なんと神々しくも慈愛に満ちた眼差し(慈眼)よ、母親は矩隋をせかせて若狭屋さんに行っておいで、30両びた一文負けてはならないよと言った。出間際、寝食忘れた矩隋にはもはや体力も残っておらず、湯呑の水も母親と分けて飲んだ。

 若狭屋は観音像を手に取り、まず亡父の遺作と思った。しかし矩隋の銘が入っているではないか、こりゃ大変だ、100両出しても買えない出来栄えだ、この慈眼に接すると至福に浸ったようだ。なに、母親が出がけに湯呑の水を半分にしたと、それは母親は死ぬつもり(水杯)だ。急ぎ家にとって帰すと案の定、母親は首を吊る寸前に間に合った。以後矩隋は時代の名工として彫り続け、殿様にも寵愛され、若狭屋の門前は市をなした。「名人に二代なし」、というが、浜野の二代はまさに名人の称号を恣(ほしいまま)にした。

(これは、JAL機のイヤフォンから流れる「かっぱ狸」という落語を写したものです。母親の強さと愛情にいつも不覚にも涙します。)